1937〜2003 語り継ぐ「大地の詩」 財団法人 北海道農業近代化技術研究センター小史

 財団法人北海道農業近代化技術研究センター(旧名称 財団法人 北海道農業近代化コンサルタント)設立の小史として、"語り継ぐ「大地の詩」"を作成いたしました。
 "語り継ぐ「大地の詩」"は、公害闘争の原点となったパルプ工場が操業を始めた昭和15年から昭和40年の闘争終結までと、財団法人北海道農業近代化コンサルタントの設立から現在までの歴史を、コンパクトにとりまとめたものであります。
 この公害闘争は、被害農民が一致団結し合法的手段に訴えたもので、一定の成果を上げて円満に解決したことは、全国的に高く評価されております。
 私達は、この先達の闘いと財団設立の願いを風化させることなく、後世に語り継ぐ必要があると考えています。



 「産業の振興がなくて生活文化の向上はあり得ないことは判り切つていても、産業の発展によつて、自然の浄化作用を上廻る残滓的物質が放出されるということになれば、自然の調和はくずれ、自然のサイクルは破壊されてしまう結果となる。
 再創出を考えない資源の消費によつて、或は不用意な消費の過程に於て、かもし出されるのが、いわゆる公害である。
 公害は、風水害のように自然の暴力による不可抗力の災害でないことを、われわれは銘記すべきである。
 この公害をなくするためには、公害源物質を、再び有要資源として活用或は再生産するという、人間の知恵が伴うべきであつて、このことこそ公害絶滅の基本理念であり、公害に対する正しい認識、正しい姿勢と言わなければならない。
 従って、公害闘争の目標は、第一次元に横たわつている正しい認識をもたない企業の在り方や、政治行政の在り方に対する認識是正を求める闘いであり、人間疎外の企業や政治行政の在り方に反省を求める闘いである。具体的には、これらの認識の是正を要求し、企業慣行を打破し、利潤をのりこえて、社会環境整備優先の理念確立を図ることを目指すものであつて、即ち政治経済的手段を有効に使つてこれを絶滅することが最終の目的であるから、この闘争が有終の美を飾ることは誠に至難な事柄なのである。」

「 石狩川上流水域に於ける公害闘争史」【昭和四六年(一九七一)発刊】あとがきより

プロローグ

 北海道の屋根〜大雪山系石狩岳の山ふところに落ちる一滴。そのしずくが“北海道の母なる川”石狩川の源である。総延長、流域面積ともにわが国第二の大河である。流域は北海道全面積の約二〇%を占め、そこに暮らす人々は北海道の総人口の約半数にも達する。当然のことながら北海道開拓と深いつながりをもち、農業をはじめとする基幹産業、社会生活の発展に限りない恵みをもたらした川である。それ故に“母なる”との冠名をつけられるのだが、半面にはやはり開拓期から近代に至るまでの間、流域各地に“負の遺産”を堆積した川でもあった。
 その多くは洪水災害の元凶となったことである。石狩川のアイヌ語名「イシカラペツ」=「非常に曲がりくねった川」=が示すように、連続する蛇行部が多いことで春先の融雪期、夏から秋にかけての台風や前線の影響による豪雨・長雨になると、流域のどこかで必ず洪水が起き、本流域ばかりではなく多くの支流域にも水の猛威を及ぼした。
 このため、北海道の開拓・開発は一面で「洪水との闘い」とも言われるほどで、厳しい寒さや風雪とともに大きなハンディとなったのである。しかし、その一方では洪水の常襲が北海道の治水・利水・親水の技術を高め、現在に見る流域に豊かな農業地帯を広げ、発電や工業用水をもたらし、人々が憩う河川空間を創出したとも言える。

 今ひとつのマイナスは、その流れが豊かで、流域が広いことがもたらした悲劇である。ただ、このことは石狩川そのものに直接の“責任”があったわけではない。パルプ工場からの廃液が石狩川の水を汚染し、その水を農業用水として稲作に導いていた深川市を中心とする空知北部の三土地改良区に苦闘を強いる結果となったのである。
 発端はまだ「公害」という言葉もなかった戦前、昭和一五年当時にまでさかのぼる。後に「石狩川上流水域における公害闘争」として語り継がれる河川汚濁公害が、反作用的に、北海道農業の近代化を支援・促進する技術集団の発足に結びつくとは、誰もが想像できなかったことであった。

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「産業報国」がもたらした悲劇

 昭和一二年の日中戦争、同一六年の大平洋戦争ぼっ発により戦火は拡大し、統制経済下で軍事産業を重点とする施策に基づき、産業報国運動が強制的に展開された。パルプ工場も、そうした軍需関係工場の一つであった。
 絹織物、指輪、ネクタイなどは“ぜいたく品”とされて製造が禁止となり、「ぜいたくは敵だ」という言葉が人々の心、日常生活を圧迫し、生活物資も極端に不足しはじめた。
 化繊業界ではかねてから国産パルプの増産と自給化が強調されていたが、戦局の拡大傾向に伴い衣料の国産化という目的を達成するため、パルプ自給への機運はさらに高まる傾向にあった。政府はこうした要請に応えて同一三年六月、「パルプ会社」を設立した。
 その名も「国策パルプ工業株式会社旭川工場」が完成したのは昭和一五年八月のことであった。パルプの国内自給の恒久対策が工場設立の目的であったが、旭川市にとっても工業推進の要として、国に誘致を働きかけた結果でもあった。石狩川の異変はここから始まる。石狩川と、旭川市内を流れる支流・牛朱別川との合流点の色が濃い茶色に変わったのは、パルプ工場がその合流点近くで操業を始めた直後からである。汚濁の原因は当初から明らかであった。近くの忠別川合流点にもガス会社やアルコール工場からの廃液が流れ込んで川を汚していたが、最大の汚染源はパルプ工場からの廃液であった。
 この廃液は、主にパルプ製造過程で生じた排水で、水質に直接影響する亜硫酸塩や二次的変化をもたらす溶解有機物質などの有害物質が含まれていた。このことは、工場が本格稼働する前の試運転段階の廃液でも、井戸水の変化や養魚池での魚の窒息死といった現象から確認されていたのである。



大正用水路の汚濁状況
(昭和36年・深川市)
  

浮遊物を除去するために設けられた沈澱池
(昭和36年)
  

 汚れた流れは、旭川市内から下流域の神居古潭、納内、深川、江部乙付近にまで及んだ。神居古潭には神竜土功組合、深川には深川土功組合と空知土功組合の農業用水取水口があり、これらの組合に所属する約一万ヘクタールの稲作地帯に深刻な被害が広がった。折から、食糧増産は戦争遂行のために何ものにもまさる基本的国策であった。関係地域の稲作農家から被害を訴える声が高まったのは昭和一六年秋。その年一二月、対米英宣戦布告となった。
 神竜、深川、空知の三土功組合の代表理事、町村長、産業組合長、農会長たちが道庁への陳情とともに、国策パルプ、合同酒精の二社に廃液防除装置の完備を訴えた。やがて、浮遊物を沈殿させる応急措置が取られることになり、水田の水口に沈殿池を造成するための応急補償費が関係農家へ支給された。これによって、それぞれが耕作面積に応じて適当な広さの沈殿池を掘削することとなった。最初の一年ほどはこの策が有効であったが、絶え間なく押し寄せる浮遊物のためにやがて池は沈殿物でいっぱいとなり、二〜三年目には早くも無用物となり、再び耕作地に戻すこともできなくなった。まさに一時しのぎの対策でしかなかったのである。
 食糧増産が使命であっても、中心となる働き手が戦争などに動員され、農業労働力は極端に少なくなり、農地も荒れる一方だった。こうした状況では農業用水の汚濁が続いていても組織だった交渉を進める余裕はなく、廃水の流出は放任されたままであった。

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不毛と矛盾からの波動

 やがて終戦。今度は戦争のためではなく、飢えた敗戦国民を養うための食糧増産が国家的命題となった。荒れた農地を復活させ、少しでも米を生産する場を広げなければならなかった。しかし、工業も増産活動を活発化させたために、この汚染流域では矛盾した二つの生産活動が続くという不毛の状況が繰り返されるだけであった。  ひとつの救いは、昭和二四年に汚水が水稲に及ぼす影響を道庁が調査したことである。この調査は、石狩川汚水被害調査としては初めてのものであり、データを伴った説得力のある被害状況が公開されたのである(表-1)。だが、根本的な問題が解決されたわけではない。いくばくかの補償費の追加はあったものの、いわば雀の涙でしかなく、工場からの廃液は増産に次ぐ増産で増えるばかり。ついに昭和二七年に至って、土功組合から改組した土地改良区の理事長、関係町村長、議会議長、農業協同組合長、農業委員会会長、内水面漁業者代表らが「国策パルプ合同酒精廃液被害対策協議会」を結成し、工場に対して浄化装置の完備および従来の被害補償に関しての直接交渉、北海道および北海道議会に施設改善と補償のあっせんを陳情請願することを決定した。これが、その後長く続く公害闘争のうねりの第一波となったのである。  同じ年に神竜土地改良区、深川土地改良区がそれぞれ独自の被害実態調査を行い、加害各社、北海道、北海道議会、旭川市に対して報告。その後も関係方面への報告、陳情活動が重ねられていく。昭和二七年の時点で対策協議会がまとめた被害状況によると、農作物で年額一億一、四八〇万円、土地改良区施設等一、八〇〇万円、サケ・マスの捕獲・採卵で二五〇万円の内訳で、総額一億三、五三〇万円にのぼり、その後も年々増加していくばかりだった。


沈殿池の中に堆積した浮遊物
(昭和36年)

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土地改良区の結束

 状況が深刻さを増す一方、抜本的な改善対策は一向に進む気配さえみせず、農民の苦悩といら立ちはつのるばかりであった。このため、関係者の間にはもっと強力な組織的活動が必要との声が高まっていく。昭和三二年に、三土地改良区が中心になって結成した「石狩川水質浄化促進期成会」が従来の対策協議会に代わる新組織で、このあたりから農民運動的な展開へと移行していくのである。期成会会長には一已村(現深川市)選出の道議会議員・児見山増夫を選出し、汚水の完全処理と損害補償問題の解決を旭川市、パルプ工場、酒精会社へ求めることとした。その目的は、河川の水質を保全し水稲生産・内水面漁業の振興と環境衛生上の不安を解消することであった。

 この問題は、陳情・請願を受けた北海道議会で論議されるところとなったが、状況は改善されることなく、企業側の姿勢も経済的理由などから問題解決に向けては消極的であった。また、期成会が政治的に利用されているという指摘や、長引く交渉の間には期成会会員の一部に、独自に補償金の更改協定を結ぶといった異なった動きも出はじめ、期成会は事実上分裂状態となるなど不安定な状況もみられるようになった。
 この間、農業試験場等の公的機関による調査によって汚濁の実態と水稲の異常生育、生産低下が報告されているにもかかわらず、排水と被害発生の相関関係は明らかではないとの見解と、企業側が補償金を払っていることから排水が汚濁原因であるのは確実とする相矛盾する見解が示されるなど、混乱が続くばかりであった。


汚泥が付着し二段根となった稲
(昭和35年)

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牽引車・寺崎の叫び

 昭和三六年、パルプ工場の拡充計画の立案は、農業側にさらに不利な状況の発生を予測させた。このような中、国は公共用水保全二法を公布し、河川水質保全は全国的な問題としてとらえられるようになった。流血騒ぎまで起こした本州製紙江戸川工場の汚濁紛争が解決したのはこの頃である。ほかにも河川汚濁問題が東京、大阪周辺の河川をはじめ、木曾川、日光川、庄内川、矢田川など各地で発生し、石狩川流域の農民の間にも再び関心が高まった。
 翌三七年には米価要求全道農民大会において水質汚濁対策を求める緊急提案を決議し、これを受ける新たな運動組織として「北海道かんがい用水汚濁防止対策推進本部」が結成された。本部長には、空知土地改良区専務の寺崎政朝が就任した。寺崎は後にこの闘争解決を機に設立された財団法人北海道農業近代化コンサルタントの初代理事長となる人物である。
 寺崎は精力的に動いた。闘争の先頭に立ち、北海道へ操業停止を求める要求書を提出するとともに、全被害農民に向けて「パルプ廃液被害農民決起せよ!」と呼びかけ、昭和三八年三月、道庁赤レンガ庁舎前広場において抗議大会を開くことを決めたのである。抗議大会は「パルプ廃液被害農民総決起大会」の名のもとに決行され、寺崎の呼びかけに応じて当日は被害地域の農民六百数十人がプラカードを掲げて集まった。大会宣言は「浄化施設完備まで即時操業停止。損害補償要求」を骨子とするもので、これを受けた北海道側が具体的な善処策を示さない場合は毎日でも道庁を訪れ、また、内容が不満足なものであれば実力をもってしても操業を阻止するという、従来にない強い意志表示と行動であった。

 北海道側の回答は満足できるものではなかったが、同時に行ったパルプ工場との緊迫した団体交渉の結果、工場側から国の水質基準を守り、補償問題は北海道のあっせんによって進めるとの回答を得た。明白な事実がありながら二十数年間停滞していた水質保全問題は、この時に初めて解決に向けて大きく前進したと言えよう。本部が池田内閣総理大臣宛てに送った水質基準設定に関する質問書に対しての回答は、この年(昭和三八年)の八月までに工場廃液の除害施設の一部を完成させ、その他はこの年以降速やかに建設に着手させるとの主旨であった。


水質審議会の現地調査を伝える記事
(昭和37年6月21日北海道新聞)
 

宣言決議文を読みあげる大平副本部長
 

大会の経過を報告する寺崎本部長
 


 

パルプ工場前に集まった被害農民

道庁前に集まった被害農民

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歴史的な終結へ

 この時点で残るのは補償問題に絞られたと言ってもいい。しかし、この期に及んでも工場側と、あっせんをすべき北海道の態度にはあいまいなものがあり、いたずらに時間が経過した。本部はここに至って強行手段に訴えるほかはないとして、昭和三九年二月、札幌地方裁判所に対して北海道知事・町村金五を被告とする「河川工作物新築及流水占用許可取消請求の訴」を二千名を超える多数の原告によって起こしたのである。同時に水質基準違反を通商産業大臣に申し立て、さらには行政監察庁に公正な地方行政の執行を求める要請を行うなど、矢継ぎ早に手を打っていった。
 この結果、一〇月までに改善工事を完成させる旨の改善命令を出すことと、それまでの過渡的措置として一部を操業停止して汚水の浄化を図るとの国の統一見解が示され、これを受けた北海道はパルプ側に施設改善と生産制限を指示した。
 補償については、金額の決定が焦点となりつつある段階となった。本部側が法的時効を考慮して算定した額は三億円。これに対して工場側が示した金額はわずか二、五〇〇万円。あまりの開きにその後も調整が続き、結局はあっせん役の知事に一任することで最終的な妥結を見た。時に昭和三九年三月三一日午前一時四〇分であった。
 知事によるあっせん案は被害金額は四、〇〇〇万円とし、この支払い以降関係農民は損害要求を行わないとするものであった。ここに二十数年間にわたった歴史的な公害闘争は終結したのである。
 「公害」という言葉がマスコミを通じて広く使われるようになったのは、奇しくもこの昭和三九年からとされている。後に「四大公害裁判」と言われるようになった水俣病やイタイイタイ病などが注目されはじめたのもこの頃である。時代は高度経済成長期。所得倍増計画がうたわれ、総理大臣が「貧乏人は麦を食え」といってはばからない“無責任時代”でもあった。経済を支える産業が大気や水、河川、海を汚染しても大目に見られていたのである。

 『石狩川上流水域に於ける公害闘争史』のあとがきには
 「……産業の振興がなくて生活文化の向上はあり得ないことは判り切つていても、産業の発展によつて、自然の浄化作用を上廻る残滓的物質が放出されるということになれば、自然の調和はくずれ、自然のサイクルは破壊されてしまう結果となる。再創出を考えない資源の消費によつて、或は不用意な消費の過程に於て、かもし出されるのが、いわゆる公害である。……この公害をなくするためには、公害源物質を、再び有要資源として活用或は再生産するという、人間の知恵が伴うべきであつて、このことこそ公害絶滅の基本理念であり、公害に対する正しい認識、正しい姿勢と言わなければならない……」とある。

公害交渉の妥結
町村知事は、寺崎政朝本部長とパルプ会社の責任者を知事室に招き、双方があっせんを受諾したことを正式に告げ、昭和16年以来20数年にわたって続けられた公害闘争は妥結した。

 今ではごく当たり前に言われることであり、この主旨に沿った行政の施策や住民運動も盛んである。その意味で石狩川上流水域の公害闘争の意義は大きく、時代を先導する理念を貫いたものと言えよう。

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財団設立と初期の歩み

 紛争妥結の結果、パルプ側から支払われた見舞金四、〇〇〇万円は、地域農業のために使われることとなった。これについて、農業近代化を図るうえで急務となっている農業基盤整備促進のための調査設計を行う機関、つまり土地改良事業に関するコンサルタントを設置するという案が北海道から示された。道の援護措置は、このコンサルタントの設立に対して行うという内容であった。さらに、土地改良の中堅技術者を養成するなどの事業内容が示された。こうして、現在の財団法人北海道農業近代化技術研究センターの前身である、財団法人北海道農業近代化コンサルタントの設立が決定されたのである。
 財団設立のための準備委員会が深川市において開催され、事業としては・農業土木の科学技術および工事施行に関する調査研究、受託、・農業土木に関する調査、測量、計画、設計、施行指導の受託、・農業土木および農業機械技術の講習、・農業近代化に関する計画および設計の援助、・農業近代化に関する内外資料の収集、展示、印刷および頒布などとした。
 財団の設立は昭和四〇年二月一六日。理事長には公害闘争を推進した「北海道かんがい用水汚濁防止対策推進本部」の本部長で、設立代表者でもあった寺崎政朝氏が就任、旧音江村役場庁舎を仮事務所として業務を開始した。この時の陣容は技術職員三名、事務職員一名の合計四名のみであった。また、全道的視野からの活動拠点として札幌に支所を開設した。
 財団は設立の母体となった空知北部地域、さらには北海道農業の発展に寄与することを目的に、非営利の公益事業と、農業農村整備事業に関わる調査・設計等の受託事業を二本の柱として運営することとなり、昭和四二年には、最初の公益事業となる大型特殊自動車等運転技術講習会を開始した。また、現在の地域活性化推進事業の前身、総合農政研修講座の初開催は昭和四四年末のことであった。昭和四六年には『石狩川上流水域における公害闘争史』を発刊している。

 昭和五〇年代に入ると、それまでのほ場整備・かんがい排水を主体とした業務内容から、より多様な業務を担うことになった。これらに対応して土質実験室、水理模型実験室が整備され、一方では国際化時代に対応してタイ、インドネシアなどへの海外技術協力・研修なども新たに展開した。一連の海外協力は、東南アジア諸国など開発途上国の農業技術開発に大きく貢献したと評価されている。目まぐるしく社会・経済情勢が変化する中、財団は着実に成長を続けた。


石狩川上流水域に於ける公害闘争史
(昭和46年発刊)

援護措置の検討を伝える記事
(昭和39年12月20日北海道新聞)
財団の事務所所在地を深川市音江町字広里129番地にさだめ、昭和40年10月に建設が開始された。設計は札幌市の田上義也建築設計事務所に依頼、鉄筋コンクリート一部2階建、建築面積543.2秩A施工は滝川市の中山組が請負い、昭和41年7月に完成した。

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時代の変化の中で

 昭和から平成へと推移した時期は、農村地域の生活環境整備に配慮した事業展開が図られるようになった。平成二年度からの「財団の第七期五ヵ年計画」では、活力溢れるむらづくりを目指して、独自性・技術力の向上・魅力に満ちた技術集団を三つの柱とする基本方針を示した。これは新しい食料・農業・農村政策の展開、ガット・ウルグアイラウンド合意後の本格的な農産物輸入自由化など、農業が大きな変換を求められる時代に対応する財団事業の根幹に流れる新しい理念でもあった。
 平成七年、財団が設立三〇周年を迎えて発刊した記念誌『大地と詩う』には、この時点での「進むべき未来」が描かれている。
 公益事業については、その第一要件は「北海道農業の振興に役立つことであり、農業者のニーズに応える課題への取り組み」、第二の要件は「公益事業の持つ性格から、被害地域にとどまらず、より広範囲に展開できる事業を採択すべきである」、第三の要件は「受託部門との均衡、整合のとれた進展を図ることである」としている。
 また受託事業については、「変動する農業情勢に対応して受託業務がますます多種・多様化されていくことであろうが、二一世紀を展望するとき、財団は技術面・コスト面でも新たな対応を求められることであろう。しかし私達は公益法人としての使命と財団が常に持続してきた独自性を発揮することによって、新たな発展方向を見いだすことが可能であると断言するものである」と展望している。

 この予測・展望はすぐに現実のものとなり、財団組織そのものが転換していくという事態が起きたのである。平成八年に閣議決定された「公益法人の設立許可及び指導監督基準」が事態の発端となった。財団はこの基準の遵守に努めた運営を進めたものの、さらに平成一〇年に法務省が「公益法人の営利法人への転換の方法」を示したことなどによって、収益事業部門の分離・分割も止むなしと判断し、収益事業部門の大部分を新たに設立した営利法人に移行することを決定した。ここに収益事業部門を平成一一年三月三一日をもって分離・分割し、平成一〇年九月に設立された株式会社ルーラルエンジニアに職員一一八名を転籍させた。


  

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初心を踏まえた新たな歩み

 平成一一年四月からは、従来の収益事業部門の大半を分離・分割し、新たな体制(常勤役員二名、常勤顧問一名、職員一八名)での出発となった。事業活動のうち、公益事業は自主研究事業とし、従来の収益事業は農業・農村整備に係る調査研究業務を主体に受託研究事業として行うこととした。
 平成一一年一〇月には、新体制を踏まえた財団の第九期五ヵ年計画「自然環境と農業・農村の調和を目指して」を策定している。かつての公益事業は「自主研究事業」と表現されることとなったが、「農業者の要望に応えるため、独創性に富んだ事業活動の展開」と、これまでの路線を踏襲したものとなっている。一方、かつての受託事業は「受託研究事業」と表現され「自然環境との調和を基本に、農業・農村の有する多面的機能の発揮に寄与するための活動を重点に展開する」とし、食料・農業・農村基本法の精神を踏まえたものとした。
 その後平成一二年七月には、新たな体制における事業内容を踏まえ、「寄付行為」に示す事業内容の変更を行うとともに、新たな財団の目的、事業内容を適切に表現した名称に変更することとし、法人名称を「財団法人北海道農業近代化技術研究センター」と改称した。
 新体制における新たな自主研究事業として、北海道の農業・農村整備に関する文献・論文等のデータベース化を図り、石狩川水系農業水利資料収集事業でこれまでに収集した資料を展示公開することで、これらの貴重な技術を次世代へ伝えるとともに、農業関係の情報発信基地としての機能をはたすものである。これらの資料は、財団札幌支所内に設けた「北海道農業水利資料館」において公開展示している。また札幌支所は、新たな情報の収集や発信、研修・会議の場の提供、農業・農村整備に係る各種研修事業支援などの機能を併せ持っている。
 さらに、平成一五年には、農林水産省が策定した「食」と「農」の再生プランにうたわれている「食の安全と安心の確保」が社会的に求められるようになったことを受け、従来から行ってきた土壌・水質診断事業の分析範囲の拡大に向けた体制作りが急務であるとの判断から、社会が要求する「食の安全と安心の確保」を目指し、新たに「水・土診断室」を開設した。
 公害闘争の終結が財団設立の原点であった。いま、財団は設立三八周年を迎え、大きく変化してきた農業情勢のもとで新しい歩みをたどり始めた。
 新たな出発点に立って掲げた目標も「自然環境と農業・農村の調和を目指す」という、公害闘争の根底にあった農業者の願いと何ら変わらない。
 改めて、その原点を見つめて小史の結びとしたい。

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財団の寄付行為と事業

(目 的)
第3条 この財団は、北海道における農業近代化に関して必要な事業を行ない、もって北海道農業の近代化に努めることを目的とする。

(事 業)
第4条 この財団は、前条の目的を達成するために、次の事業を行なう。
一、農業農村整備の科学技術に関する調査、試験、研究ならびにその受託
 ・水に関する事業
 ・土に関する事業
 ・環境・自然エネルギーに関する事業
 ・農地・農業用施設に関する事業
二、農業農村整備に関する調査・計画ならびにその受託
 ・地域活性化に関する事業
 ・調査・計画・効果・評価に関する事業
三、農業農村整備および農業機械に関する技術研修
 ・人づくり事業
四、農業近代化に関する技術情報の提供
 ・地域の農業情報に関する事業
五、農業近代化に関する内外資料の収集、展示、印刷および頒布
 ・資料の収集、展示、印刷等に関する事業
六、前各号に掲げる事業のほか、前条に規定する目的を達成するために必要な事

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